大阪府の河内長野は、昔の河内国の南端に位置し、奥河内とも呼ばれます。
中世から近世にかけて戦乱が続いたこの地域、各地に大小さまざまなお城が作られました。
そのようなお城の1つが、今回ご紹介する烏帽子形城(えぼしがたじょう)です。
高野街道を見下ろす要衝
河内長野駅からほど近く、南北に走る高野街道の横にある烏帽子形山は、標高182mの小さな山。
その山頂に作られたお城が烏帽子山城です。
烏帽子形城は、鎌倉時代末期、楠木正成による築城と伝わります。千早城などとともに、楠木七城の1つにも数えられます。

京・大坂と高野山を結び、河内国を南北に貫く大動脈、高野街道。
そして、その高野街道を見下ろして立つ、烏帽子形城。
交通の要衝に位置するこの城をめぐり、たびたび激しい戦いが繰り広げられました。
烏帽子形城は江戸時代に廃城となりましたが、堀や土塁などの遺構が残されています。また、城跡は、国の史跡に指定されています。

典型的な山城
烏帽子形城は、中世のお城によく見られる典型的な山城。城の防御に山の斜面をうまく利用しています。
なお、その頃の山城は、堀と土塁(盛り土)で守りを固めるのが一般的で、石垣などは使いません。
高い石垣が積み上げられた戦国時代の大きなお城とは、かなりイメージが違います。
城の重要防御線、堀と土塁
烏帽子形城跡には、城の重要な防御線である堀と土塁が、良好な状態で残されています。
まずは横堀。山頂付近の曲輪を取り囲むように横に走ります。
なお、山に作られたお城ですから堀には水は引かれていません。いわゆる「空堀」です。

また、要所要所で土が積み上げられ、長い堤防のような土塁が作られています。
山の急な傾斜で攻め上りづらいところを、さらに横堀や土塁で行く手を遮られます。寄せ手(攻め手)はかなり苦労したことでしょう。

上下2段の曲輪
曲輪(くるわ)とは、館や陣地などを置くための平坦なエリアのこと。烏帽子形城跡には、上下2段に分かれた曲輪が残されています。
下から登っていくと、まずは、横堀に取り囲まれた一段目の曲輪に到着。小さな山城の割には、結構な面積があり広々としています。

一段目曲輪に囲まれた二段目曲輪は、奥の階段を登った先、さらに高い位置にあります。
この二段目曲輪では、調査の結果、昔の建物の跡や瓦の破片などが発見されました。
その建物の礎石が、曲輪内に復元されています。

また、烏帽子形山の山頂付近にある、この二段目曲輪は、眺望のよい場所でもあります。
曲輪内の展望場所からは、河内長野の市街からその先の河内平野、さらに、生駒山や六甲山まで一望できます。

烏帽子形城跡の周辺名所巡り
烏帽子形城跡の周辺には、次のような名所・スポットあります。城跡と合わせて、ちょっと足をのばしてみましょう。
烏帽子形公園
烏帽子形城跡周辺に整備された公園。遊具もある芝生の広場は、子どもたちに人気です。
また、公園内には遊歩道も整備されており、自然の中のハイキングが楽しめます。

烏帽子形八幡神社
烏帽子形城の鎮守社。烏帽子形山の東側に社殿があります。
比較的小さな神社ですが、室町時代建立の本殿(国重要文化財指定)が残ります。


高野街道
烏帽子形山の東側には、古くから高野山への参詣道として使われた高野街道が通ります。
そして、河内長野は高野街道の要衝として栄えたまち。現在もこの周辺には昔の風情ある町並みが残されています。
有名なのが酒蔵通り。ここでは、「天野酒」で知られる蔵元・西條合資会社が、今も酒づくりを行っています。

烏帽子形城跡の基本情報
住所:大阪府河内長野市喜多町725-1
アクセス:(南海・近鉄)河内長野駅から徒歩10分
備考:入城自由