山田寺跡|乙巳の変の功労者・石川麻呂創建の古代寺院(奈良名所巡り)

今回ご紹介するのは、飛鳥時代創建の古代寺院・山田寺の跡。
飛鳥のすぐ東、現在の桜井市西部にあります。

現在は広大な原っぱ、しかし、そこには、昔の伽藍の跡がかすかに残ります。

過去の調査では、飛鳥時代創建当時の貴重な品も出土。
現在は、国の特別史跡に指定されています。

山田寺跡

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「乙巳の変」功労者・石川麻呂のお寺

山田寺は、飛鳥時代の641年、蘇我倉山田石川麻呂の発願により造営が開始されました。

なお、石川麻呂は、蘇我氏の一族ながら、中大兄皇子・中臣鎌足の対蘇我氏クーデター「乙巳の変」に参加。

その功労者の1人となりましたが、後に謀反の疑いをかけられ山田寺で自害します。

飛鳥時代の権力闘争に巻き込まれた、悲運の人物の1人です。

山田寺跡入口

なお、石川麻呂の自害の際には、山田寺はまだ建設途中。

その後の676年に塔が完成、685年には本尊仏の開眼法要が行われました。

当時の山田寺は、壮大な伽藍を構えた大寺院でありました。

中門、塔、金堂、講堂が南北に一直線に並び、塔と金堂が回廊に囲まれた、四天王寺に似た伽藍配置であったそう。

山田寺跡・推定伽藍

広大な原っぱに残る伽藍跡

平安時代後期には藤原道長も訪れるなど、まだ伽藍は残されていた山田寺。

しかし、次第に衰退して境内は荒廃。
さらに、明治の廃仏毀釈の結果、廃寺とされました。

現在の山田寺跡は、小さなお堂が敷地隅に立つものの、見た目は広い原っぱです。

その中にかろうじて残る、南北に並んだ金堂跡と塔跡。
わずかながらも、往時の壮大な伽藍を偲ばせます。

山田寺跡・金堂跡と塔跡

敷地内の北側にポコッと盛り上がった、金堂の基壇跡。
正面21.6m、奥行18.2m、高さは1m。 

金堂基壇の前では長方形の板石が出土しています。
これは礼拝石と考えられ、現在、復元物が基壇前に設置されています。

山田寺跡・金堂基壇跡

金堂跡の南には、それよりも小さい基壇の跡が残ります。

こちらは塔跡。12.6m四方、高さは約1m。
ここの塔は五重塔であったそうですよ。

山田寺跡・塔基壇跡

金堂や塔の周囲には回廊がめぐらされていました。

1982年の発掘調査では、その回廊の一部、東部分の建物が倒壊状態で発見。
礎石や柱、連子窓などがほぼ完全な状態で見つかりました。

その際に出土した東回廊は、現在、飛鳥資料館で保存・展示されています。

山田寺跡・東回廊跡

山田寺跡の関連スポット

現在の山田寺跡には、金堂や塔などの基壇が残る程度。
これだけでは、昔のお寺の姿を想像するのは難しいかもしれません。

そこで、もう少し山田寺の理解を深めるため、次のスポットにも訪れてみませんか。

飛鳥資料館

山田寺跡の西にある飛鳥資料館。

飛鳥を中心に奈良の各地で出土した数々の文化財を保存・展示する、奈良文化財研究所の歴史資料館です。

飛鳥資料館

この資料館の一角に、山田寺跡の出土品を展示するコーナーがあります。

注目は、1982年に出土した山田寺の東回廊。
柱や連子窓など、三間分の回廊が実物展示されています。

飛鳥資料館・山田寺跡出土品(連子窓)

興福寺の仏頭

山田寺跡や飛鳥からは少し離れますが、奈良の興福寺にも山田寺の遺物が残されています。

それは、国宝指定の仏頭。
白鳳時代に作られたこの仏頭は、もとは、山田寺に安置されていた仏さまの頭部。

鎌倉時代の初め頃に山田寺から興福寺に移され、東金堂の本尊の薬師如来像とされました。

ただ、室町時代に興福寺で起きた火事で体部分を焼失。
今は、頭部のみが残ります。

現在は、興福寺の宝物館で一般に公開されています。

(興福寺の詳細については、「興福寺」のページをご覧ください)

興福寺・東金堂と五重塔

山田寺跡の基本情報

住所:奈良県桜井市山田1258

駐車場:有

備考:入場自由

山田寺跡地図

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