今回は、大阪・天王寺の一心寺(いっしんじ)をご紹介。
天王寺公園の北、史跡・茶臼山からも近い、街中にあるお寺さんです。
また、遺骨を集めて作られた仏さま「骨佛」で知られます。
お寺の目印は、前の大通りからでもよく見える、黒光りの巨大な鉄の山門です。
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骨佛で知られるお寺
一心寺の創建は、平安時代末期の1185年。
法然上人がこの地に結んだ草庵がその始まりとされています。
現在は、その法然上人を祖とする浄土宗のお寺です。
また、近代以降の一心寺は、骨佛(骨仏)のお寺として知られます。
骨佛とは、遺骨から作られた仏像のこと。
遺骨で仏さまを作るとはなかなか奇抜な発想ですが、実は、その開始は160年も前の江戸時代後期。
昔の人の斬新な考えには驚きですね。
戦時中の空襲で古い骨佛が失われてしまいましたが、戦後に再開。
今も骨佛の造立は行われており、おおよそ10年毎に一体、開眼されています。
一心寺の境内見どころ
戦前には、大坂城から移築された山門など、広い境内に伽藍を構えた一心寺。
しかし、大戦末期の空襲で境内伽藍のほぼすべてを失いました。
現在の本堂や納骨堂など主要な建物は、戦後の再建。
その中での注目は、境内入口に立つ近代的な山門。
現代の一心寺のシンボルです。
山門(仁王門)
一心寺の東の入口に立つ、黒光りの山門。
平成9年に建てられました。
コンクリート柱の上に、鉄の骨組とガラスの屋根。
さらに、重厚な門には天女の像。
なかなか斬新なデザインの近代建築。
伝統的な寺院のイメージを一変させる、「新・山門」です。
門の入口左右には、一対の仁王像があります。
しかし、山門と同様、こちらの仁王も一風変わってます。
西洋の近代彫刻のような、洋風の仁王さま。
また、普通のお寺の仁王像とは違って、鎧はおろか、何一つ身にまとわず、素っ裸。
さらに、素手の両手には武器もなく、丸腰でお寺を守ります。
この仁王の「丸腰姿」は、非暴力の智恵で悪に立ち向かう姿を示しているそうですよ。
本堂
境内中央に立つ本堂。
昭和41年再建、十間四面の大きなお堂です。
また、入母屋、総檜造、そして、本瓦葺き。
現代風の仁王門とは打って変わって、こちらは誠にオーソドックスな仏堂です。
堂内には、一心寺のご本尊、阿弥陀如来像が安置されています。
(注)2018年から工事が行われた工事で、しばらく本堂の拝観はできませんでしたが、2019年末で工事は完了。現在は拝観できます。
納骨堂・お骨佛堂
本堂の左に立つのは、納骨堂とお骨佛堂。
2つのお堂には、遺骨で作られた「骨佛」が安置されています。
骨佛は、すべて、定印を結ぶ阿弥陀如来の坐像。
まず、左の納骨堂は、昭和32年に再建されました。
戦後再開された骨佛のうち、初期に造立された3体が置かれています。
一方、右のお骨佛堂は、平成23年に建立されました。
こちらには、新しい4体の骨佛が安置されています。
断酒祈願のお墓(酒封じの神)
さて、ここ天王寺は、徳川幕府が大坂城の豊臣秀頼を攻め立てた、「大坂の陣」の激戦地の1つ。
付近には、茶臼山(天王寺公園内)や安居神社など、大坂の陣ゆかりの地が残ります。
天王寺公園すぐ近くの、この一心寺にもあります。
それは、黒い山門の近くに立つ、本多忠朝の墓。
本多忠朝は、徳川四天王の1人、剛勇で知られた本多忠勝の次男です。
生来の酒好きであった本多忠朝、大坂冬の陣では二日酔いで敵に敗北した逸話が残ります。
家康から叱責を受けるという不名誉のおまけつき。
そこで、次の夏の陣では、汚名返上とばかり天王寺で奮戦。
激戦の中、この地で戦死しました。
好きな酒に飲まれてしまったこの忠朝公のお墓、ついた名前が「断酒祈願のお墓」。
酒封じの神さまとされ、お墓の周りには、断酒を願う参詣者の「祈願シャモジ」が並びます。
一心寺の基本情報
住所:大阪市天王寺区逢阪2丁目8-69
電話番号:06-6771-0444
開門時間:午前5時~午後6時(年中無休・境内参拝自由)
アクセス:
(JR・大阪メトロ)天王寺駅から徒歩10分
(大阪メトロ堺筋線)恵美須町駅から徒歩6分
(大阪メトロ谷町線)四天王寺前夕陽ヶ丘駅から徒歩10分
(近鉄)大阪阿部野橋駅から徒歩12分
駐車場:無(ただし、お寺南の天王寺公園・茶臼山エントランスに駐車場70台あり)
ホームページ:一心寺