上御霊神社|古の怨霊を鎮める社、ここは応仁の乱勃発地(京都名所巡り)

日本各地に存在する、「御霊神社」という名の神社。

平安時代、御霊信仰が広がった京都にも、もちろんあり。

その1つが、京都市街北東、賀茂川の西に鎮座する上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)です。

また、この社の境内は、室町時代における京の大乱、応仁の乱の勃発地としても知られます。

上御霊神社

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怨霊鎮める御霊信仰の社

古代日本では、天災や疫病の発生は、非業の死を遂げた人物の、怨霊の祟りが原因と考えられていました。

奈良時代末期~平安時代には、怨霊(御霊)を鎮めることによって災厄から免れようとする、御霊信仰が広がりました。

御霊信仰で怨霊とされる代表的な人物は、早良親王(さわらしんのう)。

早良親王は、平安遷都を行った桓武天皇の同母弟。
皇太子となったものの廃され、幽閉・憤死した人物です。

また、桓武天皇の異母弟・他戸親王(おさべしんのう)と、その母・井上内親王も、有名な怨霊です。

こちらの二人も、幽閉された上、非業の死を遂げています。

上御霊神社鳥居

平安遷都後も疫病が繰り返し発生し、京の朝廷は「怨霊」に悩まされ続けました。

そこで、これらの怨霊を鎮めるために催されたのが、御霊会(ごりょうえ)と呼ばれる儀式です。

記録に残る初めての御霊会は、平安時代前期の863年(貞観5年)。

上御霊神社の創建は、この御霊会の時期とされています。

上御霊神社・境内風景

応仁の乱勃発の地

さて、そこから年代を経ること500年。時は室町時代。

京を中心に日本中が「東軍」と「西軍」に分かれて争った大乱、応仁の乱が発生しました。

この乱の勃発地となったのが、上御霊神社です。

応仁の乱の要因の1つに、名門・畠山家の家督争い(畠山政長と畠山義就の対立)があります。

畠山政長を支援するのは、細川勝元率いる東軍。
一方、畠山義就は、西軍総帥・山名宗全と盟約を結びます。

そんな状況の中、上御霊神社の境内に陣を構えた畠山政長を、畠山義就軍が攻撃したのです。

この合戦(御霊合戦)をきっかけに、将軍の室町第(花の御所)や相国寺船岡山など、京の各地で東西両軍が全面激突。

御霊合戦は、応仁の乱の前哨戦と位置づけられています。

上御霊神社・応仁の乱石碑

上御霊神社の境内見どころ

江戸時代再建のものも含め、さまざまな社殿が残る、現在の上御霊神社境内。

西から東へ、大鳥居、西門、拝殿、本殿が一直線に並びます。

西門(楼門)

境内西側、大鳥居の背後に立つ西門。

江戸時代中期、寛政年間の再建。

いわゆる楼門形式の二階建て門で、鳥居にも負けないビッグサイズ。

門入口の左右には、弓矢を手にした随身像が控えます。

上御霊神社・西門(楼門)

南門

上御霊神社では、境内南側にも入口があります。

その南の入口に立つのが南門です。

西門とは違い、こちらは小ぶりの四脚門。
伏見城からの移築と伝わります。

上御霊神社・南門

拝殿

西門または南門をくぐって境内に入ると、中央に拝殿が見えます。

三間四方の入母屋造、四方吹き放ち構造の社殿です。

上御霊神社・拝殿

本殿

拝殿の東奥にあるのが本殿。

この本殿は、江戸時代中期の1733年、御所から下賜された建物(内裏賢所御殿)を復元したもの。

本殿には、先ほど紹介しました、早良親王・他戸親王・井上内親王の御霊など八柱の神さまが祀られています。

これら八柱の神は「八所御霊」とも呼ばれます。

上御霊神社・本殿

御霊合戦の碑

また、境内の一角には、応仁の乱の発端・御霊合戦の戦碑が置かれています。

なお、石碑の文字は、江戸時代の肥後熊本藩・細川家、そして、東軍総帥・細川勝元の末裔にもあたる、細川護熙元首相の揮毫です。

上御霊神社・御霊合戦の石碑

上御霊神社の基本情報

住所:京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495番地

電話番号:075-441-2260

アクセス:(地下鉄烏丸線)鞍馬口駅から徒歩3分

駐車場:有(10台)

備考:境内参拝自由

上御霊神社地図

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