大阪府の藤井寺から羽曳野にかけて点在する大型古墳は、古市古墳群と呼ばれています。
その中心は、羽曳野の応神天皇陵(誉田御廟山古墳)。仁徳天皇陵(大仙陵古墳)に次ぐ、全国二位の規模を誇る巨大前方後円墳です。
今回は、この応神陵のすぐ南に鎮座する古社、誉田八幡宮(こんだはちまんぐう)をご紹介します。
応神陵そばの由緒ある八幡宮
誉田八幡宮の歴史は古く、その創建は、第29代欽明天皇の頃と伝わります。
応神天皇の陵墓の前につくられた神廟がそのはじまりとされています。

八幡宮と名のつく神社で祀られる八幡神。この神は、一般には、応神天皇の神霊とされます。
誉田八幡宮で祀られているのも、もちろん、応神天皇。
応神天皇の陵のそばで、その応神天皇を祀る、由緒ある八幡宮。「日本最古の八幡宮」とも呼ばれています。

また、八幡神は、源氏の氏神とされています。この誉田八幡宮も、鎌倉の源頼朝をはじめ、多くの武門から篤い崇敬を受けてきました。
中世には戦乱により荒廃したものの、豊臣氏・徳川幕府による寄進で社殿を再建しています。

誉田八幡宮の境内見どころ
誉田八幡宮の境内は、江戸時代初期に再建された拝殿など、古風な社殿が立ち並ぶ厳かな空間です。

拝殿
東の大鳥居をくぐった先、真正面に見える大きな建物は拝殿です。
正面十一間、奥行三間の横長の建物で、真ん中には唐破風がついた開口部があります。
中央の開口を境に左右に分かれた、割拝殿(わりはいでん)と呼ばれる形式の社殿です。

この拝殿は、慶長11年(1606年)、豊臣秀頼により造営が開始されました。
ただし、大坂の陣で豊臣氏が滅び、工事は一時中断。その後の寛永年間に、徳川幕府が造営を続行して完成させました。
幕府によって建てられた証拠として、軒瓦や開口部の唐破風など拝殿の各部に、徳川家の「三ツ葉葵」の紋が残ります。

本殿
割拝殿の中央部を抜けた先、中門と瑞垣に囲まれた中に鎮座する本殿。
本殿には、主祭神の応神天皇の他、応神天皇の父・第14代仲哀天皇と、母・神功皇后も祀られています。
なお、拝殿の先へは進むことはできません。参拝時の拝礼は、本殿前の拝所から行います。

南大門
ご本殿への参拝を終えたら、誉田八幡宮の広い境内の中をぶらりめぐってみましょう。
境内の南に古風な門が目に入ります。これは南大門。神社にはやや珍しい四脚門です。
この門は、もともとは誉田八幡宮のものではなく、その昔、誉田八幡宮とともにこの地にあった神宮寺(長野山護国寺)の門。
明治の神仏分離令から続く廃仏毀釈で、神宮寺の伽藍が取り壊される中、唯一残ったのがこの南大門というわけです。
現在は誉田八幡宮の南の入口として用いられています。

末社・安産社
誉田八幡宮の境内にはいくつかの末社がありますが、南大門の近くに安産社という社があります。
本社でも祀られている、応神天皇の母・神功皇后には、皇子をお腹に抱えたまま、三韓(朝鮮半島)へ出征したという伝承があります。
無事遠征を終えて帰国後、後の応神天皇となるお子を出産。
その際に、槐(えんじゅ)の木で産屋を作ったところ、たいへんな安産であったという故事があります。
安産社には「安産木」と呼ばれる槐の老木があり、安産の神さまとして信仰されています。

誉田八幡宮の基本情報
住所:大阪府羽曳野市誉田3丁目2−8
アクセス:(近鉄南大阪線)古市駅から徒歩10分
駐車場:有
ホームページ:誉田八幡宮